まちあるき
20051029

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今回のまちあるきのコースは今後整備が予定されている旧深沢トンネルワインカーブから宮光園にかけての遊歩道です。まだ通行が出来ない部分やありますが、ビューポイントを探したり地図にはない更なる発見を求めて歩きました。
・駐車場の確保、トイレの設置、サインシステム、ぶどう盗難対策、飼犬の吼え、行き過ぎた舗装(未舗装のほうが良いなど)、休憩所の設置
トンネルカーブ
出発地点のトンネルカーブ 対岸の大日陰トンネル川からは鉄橋がかかる予定 さあ出発、小雨が降り始めてあわてたけどすぐにやんだ
途中河原まで降りられそうな道を下ってみたけど断念 胡桃の木 測量用の杭が打たれていたけど味わい深いこの道拡幅されちゃうの?
イノシシが嫌いな匂いを発するイノシシ避け紐 高遠から職人を連れて来て彫らせたとされる覇道石
この畑はその昔甲州街道だったらしいけど払い下げられた。そして再び遊歩道のコースに?? 広場にするならぶどう棚をそのままにしておいたほうがいい、じゃ管理はだれがやる?なーんて議論した 最近はとても孤独な近藤勇さん
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勝沼堰堤
勝沼堰堤は、大正4年から大正6年にかけ、内務省直轄砂防事業として、山梨県東山梨郡勝沼町岩崎地先に設置されたものである。

本堰堤は、日本で最初にコンクリートを使用して築造された芦安砂防堰堤の工事前年に、一部基礎にコンクリートを利用して築造されており、本堰堤の施工実績により、芦安堰堤にコンクリートが採用されたものである。

このような経緯から、平成9年5月、登録文化財となった。 (山梨県hpより)

本堰堤は、蛇行した河道を石積み堰堤で遮断し、蛇行点に突出した岩盤の後部を掘削して河道とし、堰堤幅38.5m、岩盤上河道幅45.5m、堤高19.4mの巨大堰堤とした特異な構造を持っている。

構築された堰堤本体は裙を大きく広げた空石積みで構造としては古いが、河道を遮蔽する基礎にコンクリート壁を使用していること、水に接する部分に目地止めが行われていること、岩盤に通水穴を設けること、直壁岩盤に流路を設けウォータークッションと同じ効果を持つことなど、技術転換期の遺構と言え、前年に完成した下流の日川水制とともに用いられた新技術が、後の砂防施設へと受け継がれている。

本堰堤や芦安堰堤など富士川砂防事業の初期に施工された多様な砂防施設は、近代砂防技術の確立に向けて一定の方向性を持っており、砂防技術の確立を目指す内務省土木局の実験場として重要な役割を担っていたと考えられる。(山梨県hpより)
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国道から勝沼堰堤に降りてくる小道。草を踏みしめながら歩いてとても気持ちがいい。でももしかしたら整備するときには舗装されるかも。絶対反対。でも道に面した地権者さんとの交渉しだいでは舗装されちゃうのかなあ ここのぶどう園のフェンスは茶色(普通は緑系が多い)なので落ち着いていていい感じ
国道を横断して五所大神社へ登る 途中松雄芭蕉の句碑 五所大神社へ男坂を登る
五所大神社
五所大から甲斐高尾山への登山道
どんぐり拾って 紅葉の間の風景 スゲー
五所大神社裏手から深沢地区を望む
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太郎橋に下る 自然休暇村遊歩道だって・・誰が定めたか知ってます?
太郎橋
町の東側、日川にかかる勝沼大橋の東にある人工の堰。 日川から岩崎方面にひいた堰の中のひとつ。飲料水や水田用水として用いられた。防火用水としての役割も果たした。次郎堰と同じく人の名を付けて親しむほど、大切な役割を果たしている。 太郎の名前から、「一番」の意味があるという。
太郎橋より川を眺める 太郎橋川岸に立つお宅
ここでお茶屋さん・・考えただけでもぞくぞくする
その家主さん。大雨だと離れに行くとのこと
突然とおせんぼ でかいなあ なんと落石だった
太郎せぎ
太郎せぎ台道 ここでひと休みできる
ここいらもいい感じの景観 前も 右も
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なんだ?この石積み ぶどうの貯蔵庫だった
山梨ぶどう栽培の歴史
甲州ぶどう発祥説

甲州ぶどうは、古くから上岩崎、下岩崎及び勝沼を中心に栽培され、特にその植物的性格から適地がごく一 部に限られた自然条件にあった。 たまたま本町が最適地という自然条件に恵まれ、古い伝統の中から今日の隆 盛を見るに至った。
特に甲州ぶどうが商品として取引されるようになったのは、江戸時代五街道が開け甲州街道もその中の一つ として江戸から諏訪まで39宿が決定され、勝沼宿もその中に含まれていた。
荻生徂徠は峡中紀行の中で「勝沼の宿は人家多く繁昌なるところ甲州街道で第一番地、甲州葡萄は此国の名 物なり」と記し、勝沼宿も珍果ぶどうの里として江戸へも知れ渡ったのであった。
また、芭蕉が甲斐へ入国し、勝沼宿を通った際つくったうた“勝沼や馬子もぶどうを食いながら”は当時の勝沼の情景を良くあらわしている。
こうした古い歴史をもつ甲州ぶどうについては、その起源が未だはっきりしておらず現在勝沼町には甲州ぶどう発生の伝説が二つある。


文治2年(1186年)上岩崎の住人、雨宮勘解由は付近の山「城の平」で行われる石尊祭へ(毎年3月2 7日)例年のように村人と一緒に参列するため山道にかかった。ところが偶然にもその路傍に、一種のつる性 の植物を発見した。これは未だかつて見たことのない植物であり、一緒にいた村人にも相談してこれを自園に 栽培することにした。
それから5年の春夏を経て、そのつるは繁茂し、ついに建久元年( 年)の5月に初めて30余の房が結実した。勘解由は、この珍しい果実に自らが驚き、栽培の努力の賜と思いその年の秋の実りに期待したのだった。
そして8月下旬にその果実はことごとく熟し、色は朱紫のように、味はきわめて甘美であったので、勘解由はこの果実の繁殖方法を研究し、同8年ようやく13株となった。
この年、鎌倉右大将源頼朝が長野の善光寺に参詣の際、そのぶどうを三箇ご献上した。
その後、子孫の雨宮織 部正は領主武田信玄へぶどうを献上し、非常にその美味をほめられ太刀を賜わったといわれている。
いまから1270年前元正天皇の養老2年(718年)に僧行基が西方よりこの勝沼の地へやってきました。そして勝沼と 岩崎の間を流れる日川に沿って柏尾に至り、たまたま川岸にそびえたつ大岩石の上に静座して祈願を続けたところ、21日目に忽然と薬師如来が霊夢となってこの岩上に現われた。
しかもこの薬師如来の御姿は金色にさん然と輝き、右手にぶどうを持ち、左手に宝印を持つという普通の薬師如来の御姿とは違ったものであった。
そこで行基は早速この霊感に従って、この地に一寺を建立することを思い立ち、付近の山に登りケヤキの大樹を切って薬師如来の御姿を刻んで安置し、奉った。この寺が柏尾大善寺である。
そして、伝教の法典の党禅鈔第一薬師法十九薬師像の中に「呼迦陀野軌言薬師仏座宝蓮花座、其形金色為相也、左手取宝印置花膝上、右手取葡萄、葡萄諸病忽除之宝薬也」とあり大善寺の葡萄伝説は、この覚禅鈔によるともいわ れている。(町のhpより)
長田 徳本(ながた とくほん)   1513(永正10)年〜1630(寛永7)年


室町時代から江戸時代にかけての医者。
甲斐国に長く住んだことから「甲斐の徳本」とも呼ばれた。
最初、武田信虎に医者として仕え、後、信濃に移住。武田家滅亡後、甲斐に戻る。
元和年間に上岩崎村(現 勝沼町)においてぶどうの棚架法を考案し、ぶどう栽培の発展に貢献した。寛文年間には江戸に赴き、徳川秀忠の病気を治したといわれる。
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